ティム・オブライエン『本当の戦争の話をしよう』

んで昨日に引き続き(昨日?)、もう一冊のこちらは、核世代(勝手に訳す。誤訳を気にしていては外国語なんてかかわれませんよ)に比べると物語やら語りやらの点で、多少劣るような気がする。結局のところ、全く状況は違うのだけど書いていることは近いのではなかろうか。つまり、非日常であるもの(こちらでは戦争)の、強制的かつ不完全な日常化である(向こうでは逃亡、あるいは主人公以外なら彼らそれぞれの戦いみたいなものとかの)。「ソン・チャボンの恋人」だって、結局はそういう話だ、と言って言えないことはない。そこにやむを得ず入り込まなければならない、あるいは無理矢理入れ込まれるのだが、ぴったりとはまることができない、といった話ではないかというわけだが、そんなこと言ったらもっといろんなものだってそういう話だと主張することはできるな。とりあえず読めば良いよ(それを言ったらおしまいである)。特にタイトル作(原題"the things they carried"のほうも、邦題のほうも。もちろん個人的には邦題のほうが好みである。言うまでもない←読めばわかる←読まなくても教えてあげようメタだからだ)。
戦争について書かれたものを読むだけで消耗したような気分になるってのに、実際に体験するというのは相当想像を絶しているのではないか、そういったものは、ただ書くだけではどうしようもないのではないか、と二冊続けて読んで感じた。というのは、実際に戦争のことを書いたこちらの短編集よりも(しかしそれは体験そのものを書いたのではない、と言っていますけどね)、『ニュークリア・エイジ』のほうにむしろ切実なものを読むからだし、そのへんがフィクションによる本当の話の強みなんじゃないのかと思うわけである。しかし実際従軍したひとはどうなんだろうね。こちらの短篇集のようになっていたほうがいいのかなぁ。
ところで短篇とか短篇集とか言っているが、これは短篇集なのだろうか。あ、短篇集を定義せよというのは哲学分野ですかそうですかじゃあやめますね。形式としては短篇集に最も近いと思いはする。短篇だと思うし。しかし短篇がたくさんあったからといって、総体として短篇集が出来上がるとは必ずしも限らないんじゃないの、というひとつの疑問を抱いたとしても別に不思議じゃない。共通する登場人物や関連した物語といった意味では連作として捉えるのもひとつの見方である。まぁ短篇小説の集積を短篇集と呼ぶのであれば、俺は短篇集で良いような気もする。長篇と思いたいやつは思えばいいよ(自分で話題振っといて無責任)。
短篇ひとつずつあらすじ書けばいいんだろうけど、煩雑になりそうなんでやめる(要は面倒だということです)。短篇とインタールードみたいなものがあるんだよね。でもインタールードみたいなやつが結構良いんだよね。でもインタールードみたいなやつは短くてあらすじも何もないんだよね。まさかあらすじに「愚痴」とか書けまい。いや、別に書けそうな気もするぞ。まぁそんなこんな。立ち読みするならタイトル作。これは鉄板。