いや腐ってんだから生き返らなくてもゾンビっスよ。ところで親方……

今日は書くことがないので近況というか、今読んでいる本の話をします。昨日もなかったじゃんと思ったひとはなかなか冴えています。別に書くことがなくても書くことはあるものです。矛盾のように聞こえますが、「書くこと」の指しているところが違うので平気です。これを“一見文章上矛盾”と我々は名付けることにします。この話もうやめてもいいですか。

さて読みかけの本が腐るほど積んである我が机上ですが、ちょうど読み終わったのがジイド法王庁の抜け穴、数日並行して読んでいるのがフォークナー八月の光で、これは五月の連休にアブサロム、アブサロム!(辞典サイズの文学全集で一気に読めないと読まなそう)を読んでしまいたいため一応予習みたいなもの(つっても前に二冊読んではいて、なかなか長いのを読む決心がつかなかったというだけ)。余談だけど響きと怒り岩波文庫に入るので安くなるかと思ったら下巻であんまかわらないっていうこのなんとも言い難いアレだなぁと思った。両方(八月とアブサロムの話ね。まぁ辞典みてーなのにはもっと他にも入ってんですが)面白かったら買うかも。が良いらしいんだけどね。寓話ラ・フォンテーヌとは違って長篇らしいんだけどなんとかサーガの一篇ではないんだそうです。
で、最後のゴーレムだけ残しているレムの虚数。これ面白いけど他の(小説を)読みたいなぁと思う。まぁほぼ小説みたいなもんだが。
序文だけ読んだ純粋理性批判小鳥たちのために。多く、購入するといつでも読めるからと思って読まないというひとがいますが、俺は毎日どころか毎時火事と地震地震による火事と周辺家屋の火事の延焼と事故による失明病気による失明地震によって窓が割れて目に入って失明火事で燻され過ぎて失明等々の心配を抱えて生きているので、買っただけでは安心できない。とりあえず読み始めて序文だけは片付けて、体調の整ったときに一気に読んでしまえるようにしておく(一種の下調べ的意味もあるけども)。
思い出したように半分読みかけのものを拾い出してきたのはカルヴィーノ文学社会評論集水に流してで、これはいろいろと言及しているから持ってるイタリア文学片付けて読もうと思っていたのだったがすっかり放置してしまっていた。パヴェーゼ読んだのとかもういつだよって話ですよね。これ読んでいるとヴィットリーニを読みたくなるけど、まぁ文庫化は望めないんだろうし古本も偶然見つけるのは難しかろうなぁ。てか翻訳全然ないのか。あ、岩波文庫のは読んだんですよ。南部イタリア(てかシチリアか)がものすごく現実感の無い土地に見えてきますよ。で、これも読み終わりそう。
寝物語がわりというわけじゃないけどここ数日寒いんで布団入ってからあったまるまで読んでいるのはホームズの復活。これも半分過ぎたくらいでもう読み終わりそう。ホームズものはこれでやっと半分というところかと思うが、持っているものはこれで終わりなので追加購入してこなくてはなるまい。長篇四作は大抵どこでも100円で落ちているのだが、短篇集のほうはなかなか発見できないのが困る。寝物語にしようとしてやや失敗したのが中国怪奇小説集で、ひとつひとつの話があまりに短くてどうも寝際には読むスピードがつかみづらい。まぁそのへんは体質の問題かと思うので省く。
一向に手にも取らないのが二冊、桃太郎の誕生。もうなんてーか、本が旧いので紙も旧いし印刷も微妙にかすれたようでいて字のつまり具合もなかなかという強敵。土のほうは三分の一くらい読んで、柳田國男のほうは桃太郎のところだけ読んだ。目が絶好調でまったく疲れてないぜというときに片付けてしまいたいと思っている。
以上が失われた時を求めてより上に積んである本どもだ。失われた時を求めては、きっと他に読む本が無くなったら読み終わるだろうと思うが、今のところあちこち目移りしちゃうしなかなかこれだけにかかりっきりになるのはきっつい。けど上のほうが片付くとすこーしずつ読んでます。今は埋まってる状態ってことっすね。