ティム・オブライエン『ニュークリア・エイジ』

気が滅入ると言えばいいのか。面白い作品だとは思う。単純な構成を考えに入れた上でも(暗示的)。
90年代半ば、《僕》は穴を掘り始める。穴を掘る動機は最初に説明されるが、それは終章で読者が思う動機とは違うだろう(おそらく、である。つまり、俺は違いました、ということ)。話は《僕》の少年時代(60')へとさかのぼり、穴を掘る《僕》と、少年、青年、中年へなっていく《僕》の話は交互に進む(過去と現在を交互に見せるというのはほとんどの場合非常に単純な手法であると思う。よくよく考えてみたまえ。そんなことはワンピースでさえやっている)。序盤はいい。不幸なようでいてコミカルでさえある変わり者としての少年時代、愛想を尽かそうとする妻と仲を取り持とうとする12歳の娘。7章での変わり者を遥かに越えた精神異常気味な振る舞い(しかし現代パートはまだ笑いがある)以降、ヴェトナム戦争が絡んでくる中盤、話は一気に嫌になるような展開になっていく。
主人公は、戦争向きの性格ではない。ひとことで言うと精神的弱者ということになるのかもしれないけど、かなり現代人的なんじゃないだろうか(誰が好き好んで戦争したいか? というような意味で。戦時下でそれを言ったら余裕の非国民扱いである←多分)。もうそのヘタレっぷりは他人とは思えない。我こそはヘタレと名乗りをあげようと思う者はこの本を読んで多少なり鬱々とした気分になって欲しいところである。三島由紀夫のようなマッチョ好きには無論薦めない(しかし『仮面の告白』を読めばわかる通り彼もヘタレなのだが)。
ティム・オブライエンは言うなればヴェトナム戦中派である。一兵士として従軍しているという意味では戦後派にむしろ近いのかもしれない。そのことは一昨日の雑記で感想書くよと(タイトルは挙げずに)言った『本当の戦争の話をしよう』を読んだほうが感じやすい。戦後派、それも第一次、その上マティネ・ポエティックはどちらかと言えば除く、といった作家たちを好んで読んでいた過去のある自分としては、戦争に行き作家になった経歴の持ち主である著者には、どこぞの馬鹿犬のごとく魅かれる部分があるわけなのである。
で、訳しているのが皆様お馴染み村上春樹なのだが、このひとの書く訳注が面白い。ヴェトナム戦争の簡単な知識と当時のロックミュージックを中心にして80ほど付けられた注は、それだけ読んでも結構いける。小説そのものは村上春樹の作品にはそれほど似ていないかな。部分的に、お、ここは、と思うようなのはあったけど(比喩とか)、それは訳が作用しているのかもしれない。村上春樹よりもロスト・ジェネレーション的な喪失感に近いのではないか。ってロスト・ジェネレーションとかほとんど読んでませんけども。
二度ほど本を閉じたが、読むのをやめるというわけにはいかなかった。まぁ求心力みたいなものはなくても普通読むわけだから、ほとんど意味のないことを言っているに過ぎないのだけど、そういう言いかたがこれほど似合う本ってのも珍しいな、という感じ。
でも、ねぇ、ボビよりサラのほうが素敵よね。終章でのメリンダが一番素敵と言ってしまえばそれまでなんだけど。