ナタリア・ギンズブルグ『ある家族の会話』

で、何故か、これを読み始める。父親がいくらなんでもディフォルメされ過ぎているような気がするけど、まぁこんなものなのかしら。なんだかまぁロボットの寸劇のような話である。
と思っていたが、読み進むにつれて語り手本人の話が多少なり語られ始めるとそれなりに面白い。
と上までは雑記に書こうと思っていたもの。そうこうしているうちに読み終えてしまったので以下を書きました。というか書きます。今から。


パヴェーゼと著者は親交があって、この作品では自殺についても語られるんだけど、その部分がとても素敵だったので引用してみる。ところで、小説の内容も著者の経歴にもとんと暗かった俺としては、パヴェーゼが登場したときには本当に仕込みなしで驚いたと言わざるを得ない。すごいタイミングで読んだものだ。

 パヴェーゼはある夏、私たちがだれもトリノにいないときに自殺した。彼は自分の死に関連する諸状況を、まるで散歩の道すじかパーティーの計画をたて用意をととのえる人のように、こまかく準備し計算した。その散歩の道すがら、またはパーティーの席で、不測のあるいは偶然の事故が起こってはならないと彼は考えた。(中略)
 彼は何年も前から自殺すると言い続けてきたので、もうだれもそれを本気にしていなかった。(中略)彼は戦争を恐れてはいたが、そのために自殺するほどではなかった。それでも戦争をこわがり続けていたことはたしかで、(中略)彼にとってそれは不測と不可知の渦を意味し、彼の明晰な思考にそれは戦慄すべきものと映ったからである。(中略)
 要するに、彼が死ななければならぬ理由はひとつもなかった。しかし、いくつかの理由をでっちあげて組み合わせ、一瞬のうちにその合計を正確に計算し、もう一度組み合わせてみると答が同じだったので、彼はあの悪意にみちた微笑をうかべてこれが正確な答だという結論に到達した。(後略)

p261-p262

さて俺の引用が下手なことを加味しても(本当は全文引用したいんですが、僕は基本ひとの家で長い引用を読んだりはしないんですよね。まぁ引用部を読まなくても家主の意見を読むことに意味がある、とするなら、誰にも読まれなくても引用することに意味があると言い切ってしまえばいいだけなんですが)、なおまだ魅力的な一節だと思う。《要するに》ってのは多分、その後イタリアは結局(1950年以降)戦争をしなかったっつーことを言っているんではないかと。結果論的には、っつー感じで。
で、やっとこの本についてだが、著者の家族を中心にすべての人物を実名で登場させた、作品となっている。自伝色が濃い、と思うでしょう? 恐るべきことに、「私」は話にほとんど絡んでこない。父がこう言った、母がこう言った、姉がこう言った、兄が喧嘩をした、五人兄弟の末っ子で、登場人物には事欠かないというわけだ。両親のことが中心になっているように思う。そして彼等には口癖のようなものがあり、それに対して俺のような妙な誤読をされることになる(ロボットみたい、は訂正して、オルゴールみたい、にしようかな←ポエム脳)。話が後半になると「私」は結婚し、夫と暮らすことになる。以降、筆致が引用のような、長い観察、考察を含むようになっていく。
この作品に対して申し訳無いことにパヴェーゼに関する脱線が長かったが、家族の会話をときに年代や場所をすっ飛ばしながら読まされるというのは、結構面白い。自伝的な小説についてさほど肯定的な意見を持っていない俺ですら面白いのだから、偏見のない人間が読めばなお良かろうと思う。というか全然自伝的じゃないのが面白いのかもしれない。となると偏見のない人間は面白いかどうかわからないことになる。まぁそのへんはどうでもいい(俺が面白ければそれで)。