ジャム詩集

ほんとうは本なんて読んでいないのだけど、でっち上げるのはそれなりに得意分野と呼んでもいいくらいなので適当に何か書いておこう。ということで長くなるので途中で畳んでありますが、テンションの低さは拭いきれない雰囲気となって漂っている通りなのでひらいて見ても特に面白くはありません。
フランシス・ジャムは19世紀後半から20世紀の頭にかけて多数の著作をものしたフランスの詩人。訳書も結構あるような気がするがあまりメジャーな感じはしませんね。
旺文社文庫版なんでリンクすべきところが見つからない。昭和49年の田辺保訳。
無駄に長々といきますよ。
『月下の一群』を読んで、こんな良いもの書いてるのか! と期待していたが見事に肩透かしを喰らった一冊。キリスト者になってからの作品は個人的に論外としても(でも、それまでの作品が面白いと思える場合、以後の作品も面白いと思うような気はするかな)、それ以前の作さえ感じたほど面白くないとはどういうことか。月下読んでいるときには、延々50ページもジャムの詩があって、おいおいこれじゃ詩集買った意味が薄れるじゃないかと思った記憶がなきにしもなので、両者とも代表作を収めているのであろう以上、重複がないとは考えがたい。ならば読み比べればいいのだ。
まずはサンプルa

哀歌  第14


――恋人よ。」とお前が云つた。
――恋人よ。」と僕が答へた。


――雪がふつてゐる。」とお前が云つた。
――雪がふつてゐる。」と僕が答へた。


――もつと、もつと。」とお前が云つた。
――もつと、もつと。」と僕が答へた。


――こんなに、こんなに。」とお前が云つた。
――こんなに、こんなに。」と僕が答へた。


その後、お前が云つた。
――あんたが好きだわ。」
すると、僕が答へた。
――僕はもつとお前が好きだ。」と。


――夏ももう終りね。」とお前が云つた。
――もう秋だ。」と僕が答へた。


ここまで来ると僕等の言葉は、
たいして似てはゐなかつた。


最後にお前が云つた。
――恋人よ、あんたが好きだわ……」と、


いかめしい秋の
大げさな夕日をあびて。


すると僕が答へた。
――も一度言つてごらん……。」と。

旧字は出すの面倒だったから勝手に直した(戀とかね。だいたいこの字の大きさじゃこんな画数の多い字は読めないっての)。
で、b。

悲歌  その14


――「大好きなあなた」きみが言った
――「大好きなきみ」ぼくがこたえた
――「雪が降っているわ」きみが言った
――「雪だね」ぼくがこたえた


――「もういちどね」きみが言った
――「もういちど」ぼくがこたえた
――「こんなふうにね」きみが言った
――「こんなふうに」ぼくが言った


しばらくして きみは言った「愛してるわ」
ぼくは言った「ぼくもだよ もっと……」
――「美しい夏も終りね」きみが言った
――「秋だね」ぼくがこたえた


それから ぼくたちの言葉は
前みたいに 同じではなくなった
ある日 とうとうきみが言った
「おお あなた どんなに どんなに 愛しているか……」


(それは からんとした秋の日が
はなばなしく 沈んで行くころだった)
ぼくはこたえた
「もう一度 言ってよ…… もう一度……」

リンクできないとわからなくて困りますね。
どうでしょう。まぁでも引用したら書き疲れたからどうでもよくなったわ。
そういうわけにもいきませんか。どちらがどちら、ということをばらさないで書いていく気力がないので、もうすぐに言ってしまいますけど、上が堀口大學訳下が今回読んだほうです。
後者は「セックスをするまでは仲が良かったが、やったらそれでおしまいなムード」が漂っているようにしか思えませんが、まぁそれはそれでそれなりに成り立つ気もするのでとりあえずわきに置いておいて。
堀口訳を読んだ時には面白い詩だと思ったものの、後者では琴線に全く触れてこなかったこの詩、実は二冊並べてみるまで同じものが入っていることにすら気付かなかった(哀歌1なんかもそう)。まぁつまり一冊だけ読んで判断しちゃダメですよってことだね。もうそれでいいですか。いいっすね。