井伏鱒二「黒い雨」

えー、そもそも今回の企画は、この本を読むために立ち上げたと言っても過言ではない(何を言っているのかわからないひとはある意味で幸せだと思われるのでわからないままでいてください)。今“(略)む”におけるラスボス的存在(だけど読み終わったのは二週間以上前なのはなんでだぜ?)。
武田百合子富士日記で毎年終戦記念日の頃に読んでいるのを記憶しているひともいることと思うが(まさか俺だけじゃねぇだろ)、他の戦争文学と比べて多少なりこの作品に異色と呼べる点があるとすれば、それは井伏文学特有の対象との距離の取りかたにあるのだろう。と井伏鱒二なんてろくに読んだこともないのに勝手なことを言ってみる。そもそも戦争文学だってあんまし読んだことないですが。
戦争文学は多くの場合兵士の視点から書かれる。特に軍隊経験のある第一次戦後派の場合はそうで、戦場だと大岡の「野火」「俘虜記」兵舎が舞台のものでは野間の「真空地帯」が有名ですよね。タイトルは失念したけども武田泰淳も、中国で無抵抗の村人を(上官命令で)撃ち殺して終戦後も帰国しないと選択をする兵士の話を書いていたし、ま、梅崎春生は言うに及びませんな。たぶんこれらの中でも面白いのは島尾敏雄の「出発は遂に訪れず」前後の一連の作品なんだけど(女っ気があるからかね)。そういや中野重治も「米配給所は残るか」のようなのを書いている。まずいこれはいかにも読書量が少ないのが露呈してきたぞ(原爆文学とか敬遠しちゃうんだよね。それ一作しか有名でないという場合が多くて。つまりそれって、テーマとしては重要だけど小説家としては二流ってことなんだろ、と思うわけよ)。話が逸れまくっている。
兵士でないひとが主役である戦争文学って、何だろうか。誰でも知っているような作品がある。坂口安吾の「白痴」だ(つーか白痴くらい一発変換しろと)。野坂昭如の「ほたるの墓」はどうなんだろ。ほとんど終戦してからの話だったかと思うけど広い意味では。井上光晴もあるよね(「ガダルカナル戦詩集」以外未読だが「明日」はたぶんそう)。無軌道過ぎてどう話をつなげたいのか自分でもわからなくなってきた。知識をひけらかしたいわけではないよ。そもそもひけらかすほどねぇし。
そんなこんなを前置きにして、頭の隅にあったのは「はだしのゲン」序盤と広島は原爆資料館での役に立たない知識と安吾の「白痴」だったんですが、書き手も語り手もジジイであるせいか、登場人物は全体にとても落ち着いている。
「黒い雨」は終戦後数年経って、一家が姪の結婚のために奔走する話(ほぼ誤解)。老夫婦と義娘同然の姪の日記を中心に被爆体験を語りながら、池に魚を放す計画を立てたりする(ジジイの趣味が釣りだから)。
原爆の正体がわからない、というのが巧く書かれている部分。凄い破壊力の新型爆弾らしい、とか、被爆したら後遺症が出るようだ、というのが日記の日付が進んでいくにつれて段々とわかっていくわけで、それが過去のことを語っている(そうなることを知っている)ことを抜きにして、案外に読めるものに仕上がっている理由だと思う。彼らにとって空襲はすでにいくらか日常であり、新型兵器を使われて家がダメになってもパニックにならず、ベターな方向を模索し、やるべきことを片付けていく。重傷者は死に、死体は腐り、生きているものはメシを食い、下痢に悩まされる。
扱われているものがモノだけに、面白いとかいう言葉では誉めにくい。だから逆に、これを読んでみようと思うことが少なくなっているのではないかな、という気もする。ちなみに、まさかこの手の小説でそんな伏線が、と思うようなところで、してやられた感を味わうことができる。そういったわけで、ここでは(数日前の伏線を生かして)、文学作品として普通以上に読めるものになっている、というふうに言っておきたい。