スミヤキストQの冒険

今ではその老人がいつからそれをしていたのか誰も知らない、炭焼き小屋の孤高の番人(作品が書かれた当時からこの言葉があったのかは知らないが、平たく言えば独居老人である)。彼の炭焼き小屋で軟禁状態にある主人公Qは、次第に(老人の読み通り)そのスミヤキストとしての才能を開花させていく。という筋の、まぁビルドゥングス・ロマンと呼んでいいのではとも思うけどファンタジー。もう何が凄いってジジイが破格に凄い。通常ファンタジーならラスボスであるのは確実と思われる。ところでこれはどうでもいいが、旅人であるQを《捕獲》(作中の言葉通り)するまで、ジジイの片腕となっていた犬がいる。その名もスミである。すでにこの時点で笑うしかない。

「いいか。おめぇにはまだわからんだろうがな、スミヤキが決してやっちゃいけねぇことがひとつだけある。山の生きもんを殺すこと、もっか*1山の生きもんを見殺しにすっことだ。んなことすっと、炭の出来が悪くなる。」
「それだけかよ。」
「あン?」
「炭の出来が悪くなるだけかよ。」
「ほら、おめぇにはまだわかってねぇ。炭はスミヤキにとって命よりも山よりも大切なもんだ。女房子供を窯にぶちこんででもスミヤキは良い炭を作る。」

まるっきりkiti-guyである。というか、むしろだからこそ面白い。
Qが炭焼き小屋を迷いに迷って結局便所にたどり着けない、という第一部が、全体から見ると面白くない(もちろんジジイが出てこないからだ)。全四部(と二、三部の間に挟まるQのものかジジイのものかわからない過去の断章的なエピソード)で構成されているのだが、全篇ジジイとの対話のみの第二部や(上記の引用はここから)、土砂崩れで孤立した炭焼き小屋の十三日間を扱った第三部がマジックリアリズムも真っ青な不可思議極まる調子で形作られており面白い。第四部はスミヤキストとして目覚めたQのモノローグを中心とした半哲学小説(笑いどころでもある)なのだが、結局その後の彼らがどうしたかが知りたいんだよね。
ということで読んでる間は楽しいけど読み終わってみると消化不良、という感じで。
もちろん上記は全て嘘です(土砂崩れの際のエピソードはかなり細かく妄想してしまったので書こうかと思ったが、いつもはしないのに何でこんなことを書いているのか、と疑念を抱かせてしまい興を削ぐのではないかとの懸念から書きませんでしたので行き場を失ったエピソードが頭の中をふわふわとやっています。数日後には消えるだろうな)。と書くのもどうかと思うのですが、読んだことのあるひとのために普通の感想も置いておくべきかと思う。
既存の思想家を扱うと作品に偏りが生じてしまう、ということから作者によって生み出された思想家スミヤキー、というといかにも自分好みのメタ臭がするわけだが、期待したほどでもなかったかな(という感想も実は嘘で、解説だかあとがきだかを読むまで、いや、本文を読んだ時点でわかってはいたんだけど、架空の、いや、架空のものであることはわかっていたのだから、結局のところこのような話であるということを知ったのは読み終わってからであるので、思想家だか思想だかそういったものを、既存のものではなく架空のものを使ってやるってのは面白い試みだよな、と読み終わってから思った、が正しいのではないか)。ドクトルとの議論は面白かったのだけど、院長も神学者も飛び抜けすぎていて議論にならんのね。作中作は、どうも外側がお祭り騒ぎなのに対して落ち着きすぎていやしないか、と思わずともない(俺が漢字片仮名文を読むのが遅くてスピードに乗れていないだけですかそうですか)。全体を通してみると、多種多様なキャラクタが次々出てくる序盤が面白いように思う(ってガキか俺は)。
結局その後の彼らがどうしたかが知りたいんだよね(指輪物語が面白いのは、後日談が語られているからでしょう?)。ということで読んでる間は楽しいけど読み終わってみると消化不良、という感じで(もちろんここが呼応しているのはこのために上を書いたからさ、と言い切れないところが何とも)。

*1:もしくは、の意味である